p45・46 23 西尾小学校の前身は、なぜ坂下尋常小学校?
<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック2010>
西尾小学校は平成22年(2010年)に創立100周年を迎えました。創立は、明治43年(1910年)9月ということになっています。西尾小学校が発行した『60年間の歩み』(昭和45年)を見ると、学校の名前に「坂下尋常小学校」で、児童数155名、3学級という記録があります。
しかし、『60年間の歩み』をよく見ると、もっと古い頃からこの地区に学校があったと書いてあります。『創立80周年さいお』 (春日井市立西尾小学校、平成3年)を見ると、もっと詳しく書かれています。近代教育が始まったのが明治5年(1872年) 8月に発布された「学制」とされており、この地域にすでに「瑞現学校」(現西尾小学移の上にある安祥寺の山号が瑞現山であり、江戸期の寺子屋があったことから、境内にあったことが推測されます)が設立されています。当時の児童数164名で、設立は明治4年( 1871年3月)となっています。これか認められるなら、坂下小学校の前身である「正賢学校」の創立が明治5年5月(1874年)ですから、西尾小学校はもう少し古い歴史があったことになり、創立138年とります。
その後、明治5年3月に「生法学校」ができたと書いてありますが、愛知県の小学校建設方へ提出されている「開業支度奉願』によると、学校名は「生鳳学校」(内津85番地 前川鎌吉宅)となっています。他にも明知学校(明知 光明院境内)、西尾学校(西尾 瑞現学校とどういう関係かは不明)と分校か生まれたようです。
特筆すべきは、明冶33年(1900年)9月に「内津尋常小学校」 (西尾)に統合されたということです。このときのこの地域の村名か内津村(明治22年町村合併)ですから、名前が内津となっていても西尾にあったことは十分考えられます。そして、ここを出発点とすると創立110年になります。
ところがその後、明治41年(1908年)に「坂下尋常高等小学用校舎」となり、さらに、『60年間の歩み』を見ると明治43年に<坂下尋常小学校として坂下尋常高等小学校充用校舎を改名独立校となる>としています。この2年間坂下小学校に従属する形をとっていたのてしょうか。それに、どうして坂下の名前をつけているのでしよう。西尾小学校の創立を明治43年にしている理由もここに何かありそうです
『春日井市史』をもう一度よく見ると、明治39年にまた町村合併が進められ、神坂村と内津村が合併して坂下村が誕生していたことがわかりました。この時期は役場や学校の位置で利害対立があり、立場が不利になった旧村が分離復日したいという願いを提出するなどの動きが他の地域であったことが書かれています。つまり、内津尋常小学校が坂下尋常高等小学校(明治28年改袮)に合併されて、明治41年に坂下尋常高等小学校の充用校舎にされました。明治43年に独立を果たしたものの、名前は坂下尋常小学校という名前であった、ということなのではないでしようか。
この坂下尋常小学校があった場所が、現「ハーモニー春日井」のあるところです。そして、「坂下町第二国民学校」「坂下町国民学校北校舎」「坂下町立西尾小学校」と歴史を刻み、昭和33年(1958年)に「春日井市立西尾小学校」となって昭和45年(1970年)に現在の場所に移ってきたのです。
その前、明治40年頃までにも、現西尾小学校の南、自動車修理工場の前あたりにも学校があったと聞いています。ひょっとするとそれが「内津尋常小学校」だったのでしょうか。